同時代は百年。

山本夏彦が言ったこの言葉を目にするまで、わたしは同時代とはわたしが呼吸することができる時代だと思ってきた。

同時代は百年。

山本夏彦『「戦前」という時代』(1987年単行本初版、1991年文春文庫)、「明治の語彙」
p.183 「私は同時代というものをほぼ百年だと思っている」

わたしの場合に沿ってみれば、現在六十六歳のわたしにとってはその生まれる前の三十五年が同時代の範囲になる。
合計百年。
その三十五年は、生まれる前の昭和のすべてと大正のほぼすべてを含む。すなわち、大正時代からの百年がわたしの同時代である。
もしわたしが八十歳まで生きたとしても、その生まれる前の二十年が同時代の範囲になる。
合計百年。
その二十年は、生まれる前の昭和のすべてを含むことになる。すなわち、昭和の初期からの百年がわたしの同時代になる。

同時代は百年。
とするならば、これはわたし自身の世界観を大幅に変えなければならなくなる。

改めて考えるに、同時代というのはその時代の文化的遺産を継承する義務があるということだろう。ただ流されて生きているわけではない、と。それはきわめて自然に納得できる。
三島由紀夫は、四書五経の素読をしたと語っていた。
戦後直ぐに生まれたわたしもカタカナの文語文や漢文の混じった絵本を読んだが記憶がある。
そうした時代が生んだ文化的遺産は、次の世代に継承する義務がある、と考えることができる。

わたしは、はたして次の世代にどれだけの文化的遺産を語り継げるだろうか。
はなはだ心許ない。
おそらくは、ほんの数人の人に、ほんの少しだけの伝承しかできないだろうと思う。
そうは思うが、この言葉を発見した以上それをしようと強く意思した。これはわたしの晩年の大きなテーマなのだと思った。